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【特集】戦後80年♯4「焼き場に立つ少年」平和への思い国と時代を越えて 岩手(岩手県)



2025年は太平洋戦争が終わってから80年です。全国の日本テレビ系列のテレビ局が「いまを戦前にさせない」をテーマに、平和の尊さについてシリーズでお伝えしています。

日本は、世界でたった一つの原子爆弾の被爆国です。当時アメリカ軍の兵士だったジョー・オダネルさんは、被爆直後の長崎で、「焼き場に立つ少年」をカメラにおさめました。オダネルさんの遺志と写真を受け継ぎ、戦争の残酷さと平和の大切さを訴え続けている男性が盛岡にいます。

原爆直後の長崎で撮影された写真、「焼き場に立つ少年」です。幼い男の子が火葬場に裸足で立っています。おぶった弟の亡骸を焼こうと、順番を待っています。

元アメリカ軍の従軍カメラマン、ジョー・オダネルさんが撮影しました。当時をこう思い返しています。
「石灰がまかれた焼き場に、10歳くらいの少年がやってきた。マスクをした係員は背中の幼児をおろし、燃え盛る火の上に乗せた。あまりにも深い悲しみが立ち込めていて、少年の後姿を見送ることしかできなかった」

山崎真さん「これが有名になったその…」

この写真を長く管理している人が盛岡にいます。山崎真さん、87歳です。キリスト教を信仰している山崎さんは33年前、盛岡のキリスト教センターが催した「アメリカの教会を訪ねるツアー」で、当時69歳だったオダネルさんとこの写真に出会いました。

山崎真さん
「向こうの教会で集まって、オダネルさんが写真を10枚ぐらい持ってきて説明をしながら見せてくれた。その時が初めてでした」「『もう既に亡くなった弟を連れてきて、火葬の順番を待ってるんだ』というのを聞いて、みんな一緒にいた日本人の人たちはわっと泣き出した」「涙が止まらなかったですよ私も」

80年前の8月9日、午前11時2分のできごとです。原子爆弾が一発、アメリカ軍の爆撃機から長崎に落とされました。

爆心地の地表温度は、太陽と同じ3000℃から4000℃に上ったそうです。半径1キロ以内の人や動物は、爆発の強い圧力によってほとんど即死、建物や柱は同時に焼失しました。

これから70年余りが経った2019年。全てのカトリック教徒の指導者・ローマ教皇が長崎を訪れた際、「焼き場に立つ少年」は、教皇の隣に飾られました。

ローマ教皇
「核兵器から解放された平和な世界。それはあらゆる場所で数えきれないほどの人が熱望していることです」

原爆にさらされた2つの幼い命は、平和を望む世界的なシンボルになりました。

1945年、終戦の翌月。この時ジョー・オダネルさん、23歳。佐世保から日本に上陸し、長崎市に入りました。

日本の被害や人の様子をカメラにおさめ、軍の記録にする任務を負っていました。

山崎さん
「オダネルさんが長崎の街を歩いて『これは家族に写真を送りたい』という気持ちを持ったそうです。自分用のカメラを持ったわけです。それを使って長崎とか広島の写真を撮りまくったわけですね」

真珠湾攻撃の敵を討ちたいと海兵に志願したというオダネルさんを、長崎や広島の光景が変えました。

山崎さん
「印画紙を入れるこういう大きいぺたっとした箱がある。それにフィルムを詰めてテープを張って、これを開けると焼けてしまうので開けないようにと書いて封をして、アメリカの軍隊から帰る時に検閲を逃れた。持って帰ったフィルムをトランクの中にしまって屋根裏にしまっておいたんだね」

帰国後は、ホワイトハウスでアメリカ大統領のカメラマンに抜擢されました。長崎と広島の写真を表に出すことは、長い間できませんでした。

山崎さん
「アメリカは戦争を、日本との戦争を早く終わらせるためには、原爆は正しい方法であったと言う。それを反対に間違ったことをしたと、オダネルさんははっきり言っているわけですからね。抗議を受けるわけですよ、アメリカでは。石を投げられたり、電話がかかってきたり、家族が離れていってしまったり。それで日本に私は何としても来てもらいたいということを、お願いをその場でしたんです。オダネルさんは、そういう状況の中で写真を公開しようとしても思うようにいかなかったので、日本でぜひやりたいというふうに思っていたんですね」

山崎さんは帰国後、盛岡でこの願いを実現させました。

その年の10月。「焼き場に立つ少年」など、数々の長崎の光景が、日本で初めて、人々の目に触れました。太平洋戦争が終わって、半世紀近くが経っていました。

オダネルさん
「この悲しい事実を伝えることが重要なのです。私は自分の国が好きですが、この原爆は大きな過ちで大犯罪です。決して繰り返してはならないのです」

山崎さんに多くの写真と反戦・反核の思いを託して、オダネルさんは2007年の8月9日、長崎の原爆の日に亡くなりました。

山崎さんは、岩手県の内外およそ300か所の教会や学校などで、写真の展示会や講演会を開いてきました。

鵜飼小学校の児童
「新聞や自分たちから学校に広めていって、どんどん周りの人から、思い、気持ちとかを伝えられるようにしていきたいです」

こうした活動の中で「焼き場に立つ少年」は、日本の教会からローマ教皇に紹介され、世界に広まりました。

山崎さん
「自分もこういう育ち方をしたんですよ。幼い子供を背中におぶって水汲みをしたりですね、そういう生活をして育ったわけですから、私らの年代はみんなそういうことをさせられた時代ですよ。爆撃を受けて死んでいっている人たちは、戦争と関係ない人たちですよ。ほとんどは子どもたち、女の人たち。なんでそこでこんな苦しみを受けなければならないのかって。戦争をすることがどういうことかについて、もっと日本の若い人たちに知ってほしいなというふうに思いますよね。だから私たちの責任は重いと思いますよ」

国と時代を越えて、平和への思いは引き継がれました。戦争を失くすために、誰も悲劇の中で失わないために…。

(06/13 19:09 テレビ岩手)

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